昔、川東にどんな災害があったのか記録にないが、大きい災害があったと云う話しは伝わっていない。地形 |
から見て水害以外なく、恵まれているように思われる。 |
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一之瀬村には近年まで消防の組織は無かった。昭和十一年に、初めて消防組が組織された。それは、二十才 |
から五十才までの、軍隊経験者を中心に編成された。一之瀬消防組と称し、組頭以下五十八名で、編成は組頭 |
一、副組頭一、本部長一、小頭六、消防手四十九で、各係りは本部組頭、副同、本部長、まとい二名、ラッパ |
五名、衛生係一名、標識係、水利係五名、ポンプ係小頭三名、ポンプ手十四名(管操二名)、梯子係小頭二 |
名、小鳶十二名、大鳶四名、担架係小頭一名、係り四名、大体以上の組織編成とされた。 |
発足当時、川東から次の人々が選任された。 |
副組頭三宅守、小頭三宅一良、同田中準永、消防手三輪欽一、中道済雄、三輪留弥、中道繁太郎、三輪三右 |
衛門、三宅武雄、三宅義一、三宅栄一、三輪繁一、田中義雄、三宅丈一、桐山泰、桐山充雄、桐山米吉、三宅 |
泰雄、田中喜六の各氏である。 |
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支邦事変が起き、消防組は警防団と名称が変わり、戦争が激化するに従い、本来の任務が防空活動主体とな |
った。人員も少なくなっていき、若年から老年層まで団員とされて、いわゆる銃後の護りを一手に引き受けて |
いたのであった。終戦後、消防団と変わる。終戦時当初から団に残っていたのは三輪欽一、三宅武雄、三宅義 |
一、三宅栄一、三宅丈一、桐山充の各氏のみで、終戦までの者で、団員だった者ものは、三輪元一、三宅弘、 |
三宅重二、三宅務、田中栄一、田中惣一、田中静雄、三宅高、桐山一雄の各氏である。 |
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昭和四十一年、上石津は各広報会に自衛消防隊を組織する事になった。川東は、防災は全員の責任であり、 |
特別な組織は作らずに全員が隊員とされた。隊長は広報会長である。毎日の防火活動は婦人消防が行い、ポン |
プの操作の訓練に励み、火の元の検査等が良く行われていた。事ある時は、地区の総力を挙げて対処できる体 |
制が整えられている。 |
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水防の資材が常備されている昭和五十二年、技術保存の意味で水縄の製作を行った。自衛消防発足によっ |
て、可搬ポンプが下付された。その小屋が区民の労力奉仕によって建設されたが、生活改善センターが建設さ |
れたので、その倉庫を利用するようになった。防火用水は、戦時中に六班(伊井弘氏横)と七班(雨池道下) |
に水槽が設置された。昭和四十六年に町の補助事業で、血取り場(用地三宅親氏より購入〉に設置。同五十一 |
年、雨池の町道入り口(用地はほ場整備地より)に、同五十四年、奥久手大門道入り口(用地中道昭雄氏より |
購入)、及び天喜寺境内に設置され、設備は充実された。 |
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環境整備事業の排水工事の際、所々に水止めが設備されことにより、常時通水をして、非常時に備えられる |
ことが出来る様になった。昔より、牧田川が氾濫して堤防が危険になると、川東は巾坂より三丁場の間の警戒 |
を受け持ってきた。一度堤防が決壊すれば全力を挙げて防いだ。 |
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明治の大水害、第一、第二の室戸台風、伊勢湾台風、十三号台風等、出動は数多い。近年、小山谷の出水多 |
く、特に昭和四十六、七年の出水の被害は大きく、谷の改修が強く望まれていた。災害後、砂防指定地にな |
り、昭和四十八年第一砂防えん堤、五十八年第二砂防えん堤、同六十年第三砂防えん堤が建設されて、川東の |
多年の心配が解消された。 |
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簡易水道が昭和三十一年に設置された時、消火栓が七ケ所に設備された。一インチ半のホースが一ケ所に二 |
本ずつ配置され、現在はホースも大きくされて、初期消火に備えられている。防火水槽は一カ所でポンプ約二 |
時間とされる。 |
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これらの自衛消防の永い伝統と活動を引き継ぎ、現在、川東自治会には自衛消防隊が組織されている。毎年 |
新春に出初め式を行い、可搬式ポンプを使用した操法訓練を実施している。 |