川東の昔の農業

三輪 元一 著
 
 大半は零細な兼業農家
昔から川東に専業農家はなく、製炭、材木出し、土方、木工大工等との兼業であった。女性は、藁加工と二毛
作の春作の管理が主な仕事となっていた。農産物は米が主体で、これに春作の麦、菜種、れんげ種で、その他養
蚕も僅かに行われていた。耕作反別は一戸平均四反に満たないので、大半が自家用になって収入は少ない。米を
節約して販売収入を図った。昔の村民性を現した歌に、『一之瀬麦飯、多良団子・・・・』と唄われているの
も、そんなところからであろう。
 
 苗代と種蒔き
収入の殆どを山での稼ぎに依存しているから、田作業と、山作業との連携は重要であった。春桜も終わり、青
葉の四月二十日頃になると、苗代の耕起をする、れんげを刈り此れを入れる、肥料に下肥を撒いておく。種籾は
日光浴をし、塩水洗の後、浸水をする。これは、蒔く一週間前に行う。四月下旬、用水を立込む。代かきをし
て、幅四尺の蒔き床を丁寧に作る。この時、化学肥料を入れる。一反(千平方>米)当りの苗を作るに必要な種量
は、二升五合位である。蒔き終わると水を張り、芽が伸びるまでは雀を防ぐ処置をしておく。
 
 麦の刈り入れと田植え
五月下旬に大麦が黄色になると、山仕事は、麦の刈り入れ日時の予定を決めて山を下りる準備をする。大麦か
ら取り入れは始まり、れんげ、菜種、小麦の順に進む。その跡をきゅう肥を撒き牛で耕し、十八日頃に上畑田用
水を立込むと田植えが始まる。田植えだんごが作られる。男性は牛と共に代をかき、畦を塗り田んぼを植え付け
られる様にする。女性は苗取りを始める。最初に苗代にはいる時には、御神酒を奉げる。(苗代の耳切りの式)
普通、一反に必要な苗の束数は、束、苗の大小にもよるが、三百から四百束である。
この頃水不足になると、植え付けは想像以上に困難になり、番水を行い、昼は植え付け田に、夜は代作りに水を
利用し、相互扶助により植え付けの出来ない事はなかった。普通で朝五時から夜八時頃まで行って、一週間位要
したものだった。
 
 農休みと夏の田の草取り
植え付けが順調に終わると、七月始めの半夏生には農休みが行われる。
農休みが終わると手入れが始まる。最初に行うのがラチ打ちと言って、稲の条間を鍬で耕す。次に、除草機を
回し通す、七月十日頃になるとカキ打ちをおこなう。幅の狭い鍬で稲の株間の土を反てんしながら耕す。再び除
草機を通す。終わるのを待って、手で草を取る。一回りすると、きゅう肥を稲の条間に広げる。七月の一本橋の
地蔵祭り頃、最後の草取りを手でおこなう。これを塗り草、又は上げ草といい、大体これで管理作業は終わる
 
 中干し
七月末頃、用水を落として、中干しをおこなう。穂肥を打って、稗(ひえ)をぬき、出穂を待つ。塗り草を終
わった男達は、山やそれぞれの仕事に出て行く。出穂間もない稲を猪が食い荒らす事があり、山添いの田にガス
鉄砲が夜通し鳴る年もよくあった。
 
 取り入れ
十月の中頃を過ぎると、春と同じ様に山仕事の切りを付けて、取り入れの準備をする。二十日を過ぎると早稲
から刈り取りを始める。鋸鎌で刈り、はさに掛けるか振り干にする。脱穀は千刃、昭和になると足踏み脱穀機で
行うようになった。乾燥した稲を前日の夕方稲蔵に積み、翌日暗い頃カンテラを灯して、行われた。籾はむしろ
に、広げて天日で乾燥した。大体二日で乾燥できた。全部終わると籾すりをする。昭和初年、ゴムロール動力籾
すり機の出来るまでは、土臼で引き、万石で選別をして仕上げていた。昭和二十五年からは、農協と業者にて行
われる様になった。昭和二十七年頃から動力脱穀機、その後、自動脱穀機の普及で作業は楽になり、さらに昭和
五十五年頃になると、コンバインの普及で昔の作業は遠い昔の物語りとなった。
 
 裏作の作付けと米の品種
稲の収穫と同時に、裏作(麦、菜種等)の作付けを行う。昭和三十五年頃より動力耕運機の普及で裏作作付けは
簡単になったが、他産業に就業する人が多くなり、徐々に裏作は行われなくなり、稲作のみとなっていった。
作られた主な品種は次ぎの通りであった。
万作、雄町、愛国、郡益、稔、美の錦、朝日二七号、東山三八号、金南風、九年隠市、若葉、秀峰、農林十七
号、千本、新千本、力千本、豊千本、愛知旭、十石、あけぼの、栗原もち、ことぶきもち、羽二重もち。
 
 米の供出
戦後昭和二十一年から二十五年頃にかけて、食料は極めて不足して、供出の最も厳しい時期であった。各地で
食料管理法違反の摘発が行われた頃であった。米、麦、馬冷署、さつま薯が、供出の対象とされた。県から村
へ、村は班へと割り当てる。班では会議を開き個人に割り当てた。耕地を八階級に分け、反収を決め、個人別の
生産量を算出する。それより保有量(大人一人年一石)種籾(反三升)を差し引き、各家の供出能力を算出する。割り
当て量が能力を上回るのは普通で、班の割り当ては幾日も会議を重ね、最後には升、合まで割当てねばならなか
った。皆保有米を割いて応じるなど、その苦しみは想像以上であった。特に班長の苦労は非常に大きいため、班
長の選出が困難で、今の広報会長の選出以上であった。昭和二十五年、六班が出した米は百五十六俵であった。
供出を完納すると、褒賞としてリヤカーのタイヤ、地下足袋、綿反物、衣料、マッチ、煙草等が配布され、此れ
を分けるのが、また一苦労であった。
 
 黒沢式稲作
戦後間もない昭和二十三年、長野県北佐久の黒沢氏が来村して黒沢式稲作を薦めた。これは、反収六石取り農
法であった。その原理は、稲は熱体植物にして、その収量は積算温度に比例すると云うことで、太陽光線と温度
を最高に活用することにある。その為、特殊な苗代による健苗作り、根の活力を養う焼土の施用、地温を上げる
勲炭を用いることが奨められた。水田の所々に焼き土や、勲炭を作る煙りが、毎日見えた。増産の時代、この農
法は良く行われ、かなりの増収を得ることが出来た。この農法も昭和三十年代になり、食料事情が緩和されるに
従い行われなくなったが、特異な農法で、思い出に残るものである。
 
 牛の活用
農耕に牛はなくてはならないもので又その牛糞は肥料としても大切なものであり、一戸で又は二戸で一頭牝牛
を飼育していた。飼料は自給で、稲藁と山野の草を使用し、特に川の葦(よし)は夏の貴重な飼料となった。川
の葦は村中の者が刈り取った。堤防を三つに大分割され、川東の分は巾坂堤防から一之瀬橋まで、九右工門田堤
防より三丁場まで、和田橋より萩原境までが割当られる。
いずれも川の中心が向こうとの境になっていた。大分割をする五月下旬、希望者で小割りをした。区有の山の草
も希望者で購入して刈られた。肥料の無い戦後の一時期は、道の草は奥まで早く刈りとられ、牛の餌にしたりう
まやに入れて肥料として使われた。
 
 牛の交換
農耕以外使用しない牛は、二年位すると肥えるので、痩せた牛と交換する。その時の値段の差が有ると利益金
が取れるが、必ずしも利益がある訳ではない。時には金を払はねばならぬ事もある。これを追い金と言った。利
益と言っても微々たるもので、普段の努力から見れば少ないものだった。
牛の交換は家畜商によって行う。、沢田の日比氏、大塚の高木氏、大橋氏、時の広沢氏等との取り引きが多かっ
た。
 
 牛の削蹄(てい)
毎年、農繁期前の五月と十月の年二回、削蹄(てい)をする。上、下二人ずつ四名当番が出る。血取り場に牛
を引いて行き、削蹄師に爪を切ってもらう。牛を木枠の中に入れて縄で足を固定して切る。又食欲の無い時の牛
には、舌を引き出して針で突き、血を出し塩でもむ治療をしてもらった。牛の爪切り場を血取り場と言われるの
はこの為である。
このように、牛の飼育は川東の農業が始まる頃から長い間行われてきたが、昭和四十年頃から耕起は機械に替わ
り、川東から牛の姿は遂に消えてしまった。
 
 猪の柵
猪の被害が昭和二十六年頃特に多くなったため、捕獲柵を作る事になる。大洞の谷口、久手山の神、天喜寺
裏、火葬場東の四個所に設置された。材料はめいめいが持ち寄ることになっており、大きさは二十坪位のもので
ある。七月の始めに、柵の中に薩摩芋の苗を植え付ける。秋稲が実る頃になると、この柵で三十頭の猪が捕獲さ
れた。一匹で六十キロの大猪が入ったこともあった。
 
 肥料
昔は化学肥料はなく、草、木の芽、灰、下肥え、まや肥え、菜種粕、大豆粕、にしん、石灰が使われた。割り
山に草場割り、田柴割りを設けて五月になると、腰にだんごを付けて、一斉に、田に入れる木の若芽を取った。
菜種粕、豆粕、にしんは高値のため多く使う事は出来ず、時々僅かに使った。七月始めに、にしんを使う。七月
上旬に、にしんを約五センチ位に切断して稲の株間にさしこむが、高価なので一部の田にのみ使われた。
 
 石灰の使用
肥料の主体が草や藁であるから、石灰の使用は欠かす事は出来ない。毎年七月梅雨があける頃、石灰を買いに
赤坂、昼飯や、醒ケ井まで、大八車を曳いて出かけたものである。持ち帰った石灰は、田んぼの端で小粒に割っ
てまく。水の中で生石灰はぶくぶくと音を立てて溶け、入道雲の様に大きく広がって行った。代用として消石灰
や土灰が使用された。牛屋肥(きゅうひ)は一番重要な肥料で、藁加工の屑や夏の草はみんなきゅう肥として利用
された。夏の草の多少は作に大きく影響するので、人々は競って草を刈った。
 
 化学肥料の使用
化学肥料が使われだしたのは、大正時代であるが、川東では昭和になってからである。始めは使い方が判ら
ず、特に単肥であるから、失敗が多かった。段々その使用に慣れ、自給肥料と併用されて収量も増えて行った。
戦時となると、化学肥料は配給制度になり、段々配給量は少なくなり、最後には無いに等しい状態となったが、
収量の減退はどうする事も出来なかった。再び明治時代に戻らざるを得なくなった。自給肥料の生産に人々は全
力を尽くした。戦後は供出の為、肥料になるものは何でも利用された。山林伐採後の埴林の下刈草は、どんな遠
い所からでも採って肥料とされた。次第に化学肥料は増え、昭和三十年頃になると、単肥の外、複合肥料が出
て、収量は年をおって増えていった。昭和三十年代後半になり、機械の普及で牛を飼育しなくなると自給肥料は
全く使われず、化学肥料のみとなった。しかし化学肥料の影響で色々の問題が起きている。
 
 笹刈り
家々によって、作付面積は違う。肥料はきゅう肥料、下肥、草木灰、化学肥料が主なものであった。明治、
大正時代は奥山の長洞まで笹刈りに行った。一団となり、フゴン平、萱こぼ、大こば、鷹撃ちこば、三岩を経て
長洞に達する。一人、一日「二負いね」するのが通常とされていた。
 
 春昨(裏作〉
昔は、夏は稲、冬は麦等を作った。これを二毛作と云った。春作を作る面積は普通の家で、十〜十二アール、
小麦五〜十アール、レンゲ十アール、油菜三アール程度であった。稲の収穫と並行して耕起する。麦の種は風呂
に浸ける。こうすると病気を防ぐことになる。これは温湯浸法と云われる。又蒔く時に灰をまぶす種は、十アー
ル当り、麦で三升から五升が必要である。蒔付け上に、きゅう肥を広げ覆う。化学肥料が普及すると、基肥とし
て使われた。
 中耕は十二月と三月の二回行う。土入れが二回位、追肥には下肥や、化学肥料で追肥は三月の彼岸までが原則と
されていた。化学肥料の無い頃は、下肥や草木灰が主で、この頃は余り採れなかった、中耕は女性の仕事とされ
ていた。
天候によって病気の発生があった。錆病、黒穂病で殆ど防除はしないが被害は少なく、壊滅的被害の無かったの
は不思議である。
大麦は五月末から刈り取り、脱穀して天日にて乾燥する。最後に臼でつき、とうみで選別して調製した。小麦も
大体大麦に準ずる。
 
 
れんげは点々と黒い鞘が見える頃に刈る。田んぼで叩いて鞘だけ落とし、乾燥後脱粒した。一之瀬産の種子は
きれいで、岐阜県産の見本として、全国に配られたと聞いている、これは、田んぼが砂質の為種が美しい特徴が
有ったからである。菜種の鞘が熟すと鎌で刈って田んぼに干す。乾くと脱粒する。これを油と交換して毎夜の灯
りに使用され、生活に欠かす事の出来ない作物であった。
 
裏作の品種
大麦品種       六条麦、谷風
小麦品種       早生小麦、農林二六号、同五三号
れんげ(紫雲英)品種 紫雲英、中生種
菜種品種       在来種、近畿系統が多い、
甘薯(薩摩薯)品種  護国、農林一号
馬零薯品種      男しゃく、紅丸、
 
農機具
明治、大正時代の鋤は抱え持ち立(ホウタテ)と言い、牛に引かすと極めて安定が悪く能率の悪い鋤である。昭
和になって洋式鋤が出て使い良くなった。
 
 
 (別紙:農機具のスケッチ)
 
 

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