川東の道路の歴史

 昔、牧田から多良に通ずる道で、和田から野の外道を経て、小山谷に添って宝金の平に登り、竜岡谷を渡り、
それより寺谷を渡って社宮祉
(中道)横から奥久手の端辺りを通って、久手尻から牧田川に達する道が有り、これが大街道であった。
 
 川東の部落は高低差が大きく、生活物資や特に農産物の収穫には大変苦労が多かった。特に道に依っては、人
力では引き上げる事が出来ず、牛で引き上げられた。人々は道では非常に苦労をしているので、道路に対する関
心は高く、常に改良に心掛けられてきた。現在川東の中心を通る町道(百五号線)は、始めは農道で有ったが、今
の国道の前身である県道が開設されたことにより、今の道の原型ができ、大正になり巾も一米八十センチくらい
で、漸く荷車が通る程度であった。今の国道(前の県道)は川東を通る事になったそうである。ところが其の当時
の人々は、人の通行が多くなると用心が悪くなると猛烈に反対したそうである。遂に川東に道はつかなかった。
 
 この道には三ケ所に急な坂が有った。天王山、小山、知園付近の坂で有る。坂のうち、知園の坂が大正十二年
に改良され、荷車の通る道となった。昭和に入り天王山付近の坂、次いで小山付近の坂と巾拡張がおこなわれる。
 
 戦後は自動車の普及でカーブの除去に力が入れられた。部落から、役場や小学校に行くには、久手は上の外道
から若宮を通って行く。、戸井口からは上、下畑田の農道を経て端辺りを通って行く。いずれも学校道と呼ばれ
 
 昭和五年頃当時、一之瀬村長であった三宅伊右衛門氏は、よの木坂より小学校を略直線で結ぶ道路建設を計画
する。上、下畑田の真ん中を、しかも当時としては画期的な巾三米五十の道路を作るのであるから、部落の中に
猛烈に反対を唱える者もいたが、伊右衛門氏の熱意には最後迄反対出来ず、道路は完成したのである。此れが中
間道路。功績を偲び伊右衛門さん道と人々は、たたえた。川東と村の中心を最短距離で結ぶこの道は利用価値が
大きく、無くてはならぬ道であった。昭和五十年圃場整備が行われた時、この道路は無くなった。
 
 巾坂を下りて長彦神社前の川に達する道がある、この道は宮道と呼ばれかなり重要な道であった。この道は長
彦神社の祭典に参拝の為に、橋を掛ける事になっていた。祭りに掛けた橋は秋頃まではあったが、水が出て危険
になると、橋の道板を安全な所に上げ、水が引けば又掛けられる。最初は村役で人夫が出るが後は総代が世話を
した。椿井谷、鎌ケ谷、馬淵、鞍骨、川渡へ草や萱を刈りに行く為には必要であった。昭和六年の三組の勘定書
にも橋掛けの費用が記されている。、町道百五号線から幾つもの道が支線としてつけらていて、改良が続けられ
て来た。
 
 昔は道路の除雪は青年に任されていた。その頃、川東の除雪受け持ち区域は、部落の中は勿論、中間道路を小
学校玄関まで、県道は高野農道より和田境までの区間となっていた。部落では、毎年九月の末に道の修繕を行っ
た此れを作道作りと云う。その日は総出で、午前中は大道、午後は農道を行うのである。農道は戦後になって、
受益者で車(リヤカー)の通る程度にされていった。殆ど労力奉仕によってなされたのであった。
 
 昭和四十年百五号線の舗装がされた。(一戸四千円の負担)この時から作道作りは廃止された。以後、どの支
線も舗装された。
 
 道路改良覚え
  大正十二年、知園-薬師下の間。
   十年〜十八年間、天王山付近、戸井口入口、雨池〜小山間 いずれもカーブを抜き、坂を直し、拡巾の工事。
   十二年、小山の岩割りをおこない、昔は殆ど部落の人々の労力奉仕によって改良された。
 川東の道は圃場整備から後、一変した。
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山から見た、道路の変遷

なんと云っても、ここ数十年、地域の道路が大きく変わりました。
むかしは、通称『よのき坂』から一之瀬小学校へ、まっすぐ道がのびていました。
 これが中間道路です。(昔は伊右衛門さん道と呼ばれていました)
川東の子供たちはみんな、この中間道路で小学校へ通いました。

みちくさしたり、けんかしたり、忘れ物を取りに泣きながら帰ったり、子供の頃の思い出は、
この道が原点です。今は、国道365号線が横切って、国道に沿った道になってしまいました。

昭和46年当時、まだこの道があった頃の、山から見た道の様子です。

(昭和46年7月、桐山孝之氏撮影)