秋葉講
☆歴史
 川東に秋葉講ができたのは明治の終わり頃である。それまで一之瀬においては、川西は秋葉神社に代参を持って参拝
していた。今のように地区が一緒に代参を立てるようになるのは明治41年からで、当時一之瀬の各組より一名宛の代
参都合十名が、毎年4月始めに静岡県袋井の万松山可睡斎と、その時の状況で森の秋葉神社に参詣し、志納金を納めて
お札をもらってくる習わしとなった。
十名の代参者も、昭和15年一之瀬村の組が7つの班編成に変更になったことから、昭和16年から7名、それまで
川東は3名の代参であったのが2名になった。秋葉講も3つの組が6,7班の2つになり、現在に至っている。
現在、代参の参詣は可睡斎となっているが可睡斎は曹洞宗の寺院であり、ここで仏式により御祈祷されたお札を代参
が受けてくるので、川東の秋葉祭は仏式で行われる。代参は2月1日の神明講において抽選で決定される。また講宿も
その時決定する。毎年4月2日は、代参の受けてきたお札を講宿に祭り、会食等が行われた。各家々にも火防の札が配
られ、これから向こう一ヶ年の火防の守りとされた。今日のような秋葉祭になるのは、不動祭と同じく不動明王常夜燈
を戸井口が廃止した時からである。戸井口の常夜燈をもって秋葉神社とされ、代参2名は、そのまま残されたが、祭り
は1つになり今日に至っている。
講宿における祭りは廃止されたが、祭礼は年番の係によって、六、七班の代参を神社に迎えて秋葉祭として行われ
る。現在の秋葉神社の前の常夜燈はいつ建立されたのかは不明である。久手と同年代ではあるが、石造りになったのは
いつかも、残念ながら記録にも言い伝えにも残っていない。玉垣は戦後3回新造された。そして、3回目、平成20年
には石垣の玉垣に新造された。
 祭具は、元は不動祭典用だったものを秋葉神社用に作り替えられたものである。一之瀬地区で各自治会とも秋葉代参
は同じで、代参先も同じであるのに川西、殿垣外は神式、川東は仏式で行われる。
秋葉総本殿可睡斎の川東元中組(9番組)御初穂志納帳には、明治41年50銭、昭和2年2円、昭和10年3円と
記されている。この記帳は昭和15年が最後で終わっている。
 4月2日を秋葉祭とされたのは、川西出店附近27戸の大火災が発生した日である明治9年4月2日にちなんで決定
されたのであり、また、この災事が、川西広報会の秋葉代参が早くから行われている理由でもある。ちなみに、秋葉神
社は静岡県浜松市天竜区春野町(旧周智郡春野町)にあり、祭神は火之迦具土イザナギイザナミの子で、火を司る。


☆可睡斉(かすいさい)に参詣して☆可睡斉(かすいさい)に参詣して
可睡斉(静岡県袋井市)はお寺です。 なぜこの名前が付いたかと云うと、
 
 昔11代住職仙鱗等膳(せんりんとうぜん)和尚は、幼い徳川家康とその父を戦乱の中から救いだしかくまいまし
た。その後、浜松城主となった家康は、親しく和尚を招いて旧恩を謝しましたが、その席上和尚はこっくりこっくりと
居眠りをしました。
家康はにっこりとし、『和尚我を見ること愛児のごとし、故に安心して眠る。われその親密を喜ぶ。和尚眠るべし。』
と申されました。それで和尚は可睡和尚、寺院も可睡斉と改めたということだそうです。
 
 由緒あるお寺らしく、境内も広く、室内の掃除も行き届いていて趣(おもむき)がありました。
特に驚いたのがトイレです。トイレは『東司』(とうす)と呼ばれ、トイレの中に大きな仏像がありました。また、ど
ういうわけか、象の化身の仏像がありました。うかつに『こぼせないな』と感じさせるトイレ。思わず、代参者の用を
足す姿を撮影してしまいました。!
 
 
☆秋葉神社に参詣して
 標高868mの秋葉山に西暦709年に建立されたという秋葉神社上社。平成17年に建て替えられたばかりの山
門、金(きん)の鳥居、大しめ縄。火の幸を恵み、悪火を鎮め、火を司り給う神様です。なかなか行けない山の上の
由緒ある神社です。階段をゆっくり登り、じっくりと参詣してきました。