一之瀬ダムの少し上流左手開けたところを金山と呼んでいます。

 今から320年ほど昔、マンガン、方鉛鉱を求めて鉱山採掘が始まっていました。延宝9年(1681年)には、尾張藩の手で本格的な事業として採掘が進められ、代官として河野喜兵衛が来ていました。喜兵衛は長彦大明神へ白鞘の短刀を奉納し、事業の成功を祈りました。その後20年、出る鉱量も少なくなり、ついに元禄14年(1701年)になって、中止されました。

 喜兵衛はその年の6月11日、失望と責任を感じて自決してしまいましたが、村民は憐れんで、武久利(むくり)に手厚く葬(ほうむ)りました。今でもそこに碑が建っています。

 その後、近江の人(熊谷某)が弘化3年(1846年)に採掘を始めましたが、やがてこれも中止の憂き目となり、従事していた人々は川西へ移住し、金山姓を名乗ったといいます。その頃は、かなりの人が出入りして金山集落ができ、飯場女や遊女がいてにぎやかだったと伝えられています。

 今はわずかに坑道跡や井戸跡、屋敷跡や三昧跡に名残が見られるだけで、それも竹藪に覆われています。

地名、金山の由来には、こんなはなしがあります。

川東 昔ばなし
落ち武者のたたり